思考の備忘

チラシの裏10000枚

現実を見る、ということ

自分は小さい時、絵を描くことが大好きでした。

 

小学校の時何度か、修学旅行や課外授業のしおりの表紙に自分が描いた絵が選ばれたり、何かのコンクールで入賞したりしました。

そういう時、自分を信じる力、すなわち「自信」というものが溢れ出てくる。

 

「自信」がつくと、余裕ができる。

余裕ができるとおおらかになれるし、人に優しくできる。

誰にも媚びる必要もなく、誰を憎まなくても良くなる。

 

小さい時なんてのは単純なので「将来は画家になりたい」なんて思ったものです。

ある時とのことを自分の母に伝えると、彼女は一言、「画家は食えないからダメ」と。

 

思えばあの時からだろう。

自分の本当になりたいものにはなれないんだ、と心に染み付いてしまったのは。

 

母のせいにするわけではないです。

どうあれ、自分がそのまま絵が好きなら、絵を描くことを続けて大きな賞を取ったりして、母を納得させれば良かったのだから。

納得しなくたって、本当に好きならお金を貯めて家を出てでも夢を追いかければ良かったのだから。

当然、当時小学生の自分にそこまで考えが至るわけもないのですが、、。

 

とにかく、その後、自分の絵画への興味は自然と離れて、新たな物事に心奪われることになります。

 

それこそが今現在も「自分の大好きなこと」と胸張って言える唯一の物事です。

 

これ以外に、本気で命やお金や時間を懸けることはできないです。

故に、これ以外の物事は自分にとってはどうしても「どうなったっていい」と思ってしまいます。

 

仕事しかり、人間関係しかり、その他諸々の事象に対して心が動くことはないし、自分にとってそれをやり続けていくこと、これが生きる意味と言ってもいい。

これを無くしてまでやりたいことなど何もないです。

だから、それを第一優先に考える。

 

そして、それが上手くいっている時や、それが認められた時。

自分の内側が輝いて、「自信」が沸いてくる。

僕にはこれがあるんだ、って思える。

他人を妬まなくなって、他人を受け入れることができる。

他人を好きになって、他人を嫌わなくてもよくなる。

 

それが自分にとっての「幸せ」。

と、そう気付いたのはそう遠くない過去です(ここにも少し書いてますが)。

 

一度、手放してしまった自分の大好きなこと。

今度こそ、何があっても離さないと決めました。

 

自分はつい最近まで好きなことを本気で続けることは夢であって、現実を見ることではないって思ってたんですよ。

仕事をして、お金を稼いで、余った時間で、趣味をする。

これが現実なんだと思っていました。

 

「高収入を得るチャンスを逃している人」。

今日こんな記事を見ました。

中身としては高収入を目指すには投資がどうだ、ビジネスパーソンはこうあるべきだ、というもの。

 

世の中にはこういったお金を少しでも稼ごう、みたいな趣旨の広告や記事が溢れてますよね。

副業、セカンドビジネス、株式投資、etc、、、。

 

自分にはまったくの異世界。理解できない世界。

お金のために好きでもないことを勉強している人たち、本当に凄いと思います。

これまったく皮肉じゃないですからね?

心の底から尊敬しているし、すごいと思ってます。

 

だって、つい最近までこういう人たちが「現実を見ている人」のお手本だと思ってましたから。

いや、今でも思ってますよ。

ただし、今はそういった中に「現実を見ている人」もいる、という考えに変わりましたが。

大半は「こうしなきゃいけないと思わされている人」なんだ、ということにも気付きました。

 

世の多くの人たちは、自分の本当にやりたいことをやらないで、やれなくて、諦めて、それができないのは「働くため」「生きるため」だと誤魔化して、金を稼ぐ手段を得ることこそが最優先だと思っています。またそう思わされています。

 

お金を稼ぐことを最優先に考えることが悪いなんてもちろん言いません。それが大好きで、それが生きがいで、それが幸せという人ももちろん沢山いるでしょう。

 

でもね、それが当然だ、それが普通だ、と思うことはまったくの間違いだと思います。

 

夢を諦めて、仕事を第一にし、家庭をつくって、家を建てて、それが現実を見るということだと勘違いしている人が多いです。

やりたくないことをして、苦労することが当然だと。

だから社会でやりたくないことをしても、我慢してやっていけと。

逃げるなと。

 

では、自分から一つ言わせてください。

あなたたちは「自分の夢から逃げた」のではないですか?

 

お金を、家庭を、年齢を理由に逃げたんじゃないんですか?

本当に好きでやりたいことを、それで食っていけないからって、金を優先して逃げただけじゃないですか?

周りや世間体のせいにして逃げただけじゃないですか?

それを続けていくことが出来ないから、仕事を理由にして諦めただけじゃないんですか?

それって、現実を見てるって言えるんですかね?

ただの夢から逃げた言い訳なんじゃないですか?

 

めっちゃ生意気で性格悪いこと言いましたすみません。

でも本当のことです。

 

現実を見ることって、そういうことじゃないですよね。

仕事に逃げて、自分の好きな道を諦めることじゃないですよね。

 

 

それは楽な道を選ぶということとはまったく違います。

ここをはき違えている人は多いと思います。

 

好きなことを続けるということは決して楽なことではありません。

仕事をしながら続けるなんて、とても難しいでしょう。

大半の人は仕事でくたくたに疲れて、飲んで、ネットサーフィンしたりして、寝て、また出社するの繰り返しでしょう。

 

それらを押しのけて、好きなことを続けることができますか?

収入や娯楽を多少犠牲にしたって、少しでもそのことに時間を費やせますか?

いつくるかもわからない、大成する日を夢見続けられますか?

その「現実」を見ながら、夢と向き合えますか?

 

大半の人はできないでしょう。

仕事という言い訳を見つけ、逃げている。

仕事をしていたって、好きなことはやれるはずです。

僕はそのために酒もタバコも女もやりません。

ギャンブルや浪費などもってのほか。

余った時間はほぼ好きなことに時間を費やしています。

 

それができないていない人たちが、夢を追っている人に対し「現実を見ろ」とは口が裂けても言えないはずです。

 

いいですか、「現実を見る」ということはですよ。

 

自分の人生に本気で向き合う覚悟をすることを言うんですよ。

何をやっているかなどまったく関係ないんです。

 

仕事だろうが、好きなことだろうが、自分の本気で向き合っていることがあればそれでいいのです。

他人の意見など全く関係ない。

それで稼いでいようがいよまいがまったく関係ない。

 

「現実を見ろ」なんて言う人の大変が、道半ばで勝手に夢を諦めただけ。

それを人の人生にも当てはめようとしている。

 

 

現実を見ながら夢を見るのはとっても難しいこと。

 

常に努力してなきゃ、自分の声はすぐ他人や他の意見に流されてしまう。

そしてそれを自分の声だと勘違いする。言い訳にする。

 

あなたの人生、言い訳してないですか?

金が、家庭が、時間が、年齢が。

 

何かに本気な人は、どんな言い訳もないはずですよ。

 もう一度あなたも、冷静に「現実を見直して」みてください。

 

 

これ、一体誰に対して言ってるんでしょうね、、。

ただの書きなぐりでした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知らない」ということを知ること

ひろゆきが好きです。

 

今結構ひろゆき人気ですよね。

YouTube配信やネット上でも本当によく見かけるようになりました。

自分はひろゆきが某番組で、2chをはじめとした匿名掲示板と犯罪の関係について「嘘つくのやめてもらっていいですか?」と論破祭りを繰り広げる前から彼のことが好きだったので嬉しい。

彼が今の世の中で人気になるのは必然ですよね。

何故って、そりゃ皆が思っていたけど言えないことをズバリ言ってくれるからですよ。

 

今までずっと思ってたけど、本音を言えずにいた人。

自分の主張より、周りの空気を優先してた人。

合理的でない理由を渋々受け入れていた人。

 

こういう人たちの思いを代弁してくれているのだから。

 

例えば日本人が崇拝する「努力信仰」。

これは日本で一番浸透している信仰・宗教かも知れないですね。

嫌なことは当たり前、仕事が辛いのは当たり前なんだ。

でもそれから逃げちゃダメなんだ。

逃げたら負けなんだ。

逃げたら人間として終わりなんだ。

だから目の前のことから逃げずに、壁を乗り越えていこう!

努力すれば必ず乗り越えられるさ!

とにかく逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃd、、、。

 

っていう信仰ですね。

この教義のキツさはモルモン教の比じゃないですね。

 

そして、もうかなりの人が気付いてしまってるんですよね。

ぜんぜん逃げて問題ない、ということに。

 

これは恐らく「挑戦して壁を乗り越える」ということと「死んでもいいからとにかく玉砕しろ」という特攻精神をごっちゃにしてしまった結果なのでしょう。

似ているようで全く違う精神論ですからね。

 

ゲームで例えるなら

「レベル1だから着々とレベルを上げてから魔王に挑む」

ということと

「レベル1だけど魔王と遭遇しても恐れず逃げずに戦え」

っていうくらい違いますね。

前者は「挑戦」と言えますが、後者はただの「無謀」です。

レベル1で仮に魔王と遭遇したらまず逃げますよね。

当たり前の話です。

それを「負けること」と勘違いしている人はとても多いです。

違います、最終的に勝つために逃げるんです。

強くなるために努力や装備を整えるのは当然ですが

今勝てない敵からは逃げることも当然必要です。

時には逃げつつ、自分を磨いて実力をつけ、敵に挑む。

これが挑戦するということです。

 

もっと現実的な例えで言えば、オリンピックに出場したりするようなスポーツ選手。

周りには彼らをサポートする様々な専門家や関係者がいて、競技に集中して打ち込める環境も整えて、着実に実力を磨き準備をしながら、メダルを狙う。

これが挑戦です。

 

会社で不十分な人手や環境の中、駒の様に人を扱い、教育も十分にせずにただ目の前の仕事を「やれ」ということ。

これはただの無謀です。

 

壁を乗り越えるというよりは、壁に体当たりを続けて壊せと言っているような感じですかね。

 

少し話が逸れましたが、こういうことをズバッと言ってくれるひろゆきが人気ということは、これは世の中の少なくない人が彼の発言や思いに共感しているということ。

僕はひろゆきと同じようなことを思っている人が、ずっと潜在的に日本にたくさんいたのだと考えています。

そういった人たちが今、ひろゆきという強力なインフルエンサーを自分たちのスポークスマンとして捉え、支持しているのかなと。

 

僕がひろゆきを好きな理由の一つとして、彼は「無知の知」を知っている人だということがあります。

ひろゆきってああ見えて、実はキチンと優しい人間なんですよ。

優しいというか、公平というかね。

身の丈に合ってないことを言ったりやったりする高慢なバカには容赦ないけど、真面目に生きてて損してるような人には合理的な理由や根拠をもって、具体的な解決策を提案してるんですよ。

0の人が1を気取るのも、1の人が0になるのもおかしいという、まともな思考の持ち主なんですよ。

 

その「まとも」な人の基準って「無知の知」を知っているどうか、ということがまず大きいと思うんです。

哲学者ソクラテスが唱えた「自分が無知であることを知っている」という意味の言葉です。

ソクラテスは、この世で一番知恵がある人というのは「自分には知恵がない、ということを知っている人である」と主張したんですね。

僕はこれを揺るぎない真実のひとつだと思っています。

そして、ひろゆきの人気の秘密のひとつでもあるとも思っています。

 

多分「無知の知」を知らない人が幅を利かせすぎなんですよね、今の世の中って。

その結果、最初に書いた「努力信仰」のような、合理的理由や根拠がなく、考えることを放棄しているかのような根性論や綺麗事が溢れかえっている。

 

仕事にしたって、終身雇用という砦が崩れ始めている今、一生会社に人生を捧げるなんて価値は失われつつあります。

最早お金やモノに価値を求めるのではなく、自分が生きやすいライフスタイルにこそ価値を見出す時代になってきている。

しかし世の流れについていけてない人、古い価値観がこびりついている人にとっては

それが異常に見える。

無知の知」を知らない人は、そこで糞の役にも立たないアドバイスや説教をしたがる(いわゆる「老害」ですね)。

自分の経験したことがすべてで、正しいことだと思っているからです。

確かにそれは自分の中では正しいのでしょうが、他人や今の時代にも当てはまると考えていることが「無知の知」を知らないということなのです。

 

 

そういう人たちにビシッと根拠のある正論を遠慮なく叩きつけてくれるのが、現代のソクラテスひろゆきなんですよね。

 

好き嫌いというか、賛否両論は彼の周りでは常に巻き起こっていると思うのですが、それすらも良しとしてしまうような流れがありますよね。

別に賛否両論あっていいんだ、みたいな。

嫌われたって自分はもっとわがままでいいんだ、もっと自分に素直に生きていいんだ、もっと主張していいんだ、みたいな。

 

モロリベラル思想な僕みたいな人間にとってはいい流れだなと思ってますが、今度は身の丈を超えて、どんどんわがままな主張をしてくる人も増えてくると思ってます。

今でも潜在的にはいますよね、度を越えたフェミニストとか、その逆とか、SNSの書き込みとかに対して過剰に規制しようとする人とか。

 

ひろゆきも言ってます。

「ネットがあろうがなかろうが犯罪は起こる」と。

その通りです。

ネットがあるから犯罪があるのではない。

ネットは犯罪の一手段として用いられているだけ。

包丁で人を殺しますよね。包丁売るの規制しますか?

そういうことです。

 

変えるべきは規制ではなく、我々自身です。

 

人のことをとやかく言う前に、物事に意見する前に、もう一度自分が「無知の知」を知っているかどうか、自問自答してみてください。

言動が変わっていくと思いますよ。

 

偉そうに言ってますが、自分もまだまだ無知の知を知らなさすぎですね。

反省します、、。

 

今日はこんなところで、お粗末様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分のことを、少し

今日はいつもより更にテーマのないチラシの裏書きになります。

少し僕自身についてのお話を書きたいと思います。

 

僕は現在、所謂在宅ワーカーです。

一言で言えばライターのような仕事。

この職種を選ぶまでは結構コロコロ仕事を変えてました。

典型的なダメ人間であり、怠け者、社会不適合者。

ずっとそう思ってました。

 

僕は昔からやりたいこと、というか好きなことがあります。

正直、その好きなことができてさえいれば、他のことはどうでもいいと考えている人間です。

ですので、食うための仕事なんて何でもいいんですね。

出世なんて一ミリも興味はないし、車や家どころか大金すら欲しいとは思わない。

 

そんな感じなので、大学卒業後は会社のことや業界のことなどロクに調べもせずになんとなく入社、しばらく経つと色々我慢できなくなってきて退社、を繰り返してきました。

 

その度に家族に心配をかけ、そしてその目を気にしてきました。

 

結構いい歳になってきて「転職を繰り返していれば、そのうち自分に合う環境の職場が出てくるだろ」という激甘な考えが通用しなくなってきた頃。

「そろそろ本気で自分に合う仕事を探そう」と思いました。

自分がなぜ会社を辞めてしまうのか、仕事が続けられないのかをちゃんと分析して、キチンと自分に合った仕事を見つけようと奮い立ったわけです。

 

普通の人なら学校卒業前にやってることですね。

本当にクズですね。

 

で、色々と考えてみた結果、以下の理由が仕事が続かない主な原因だと分かってきました。

 

①仕事そのものが全然楽しくない

②仕事以外の雑務(会社の行事やら飲み会)に時間を取られることが苦痛すぎる

③他人に会社や自分の仕事の足を引っ張られることが我慢できない

 

まず「①仕事そのものが全然楽しくない」についてなんですけど、そりゃそうだわなって感じですよね。

仕事楽しいなんて思える人は極めて少数でしょう。

ただ、ここで自分が分かったことは「仕事が出来ないというわけではない」ということ。

ちょっと自慢のようなウザい書き方になって申し訳ないのですが、今まで勤務した会社では基本的に優秀な人ってことで扱われてきてまして、年齢の割に早く管理ポジションに就かせてもらったり、ヘッドハンティング的なことも何回かありました。

恐らくは皆さんが聞いたことがある企業も経験しました。

だけどね、仕事が上手くいっても、やっぱり面白くないんですよ。

なので「仕事が出来ないから面白くない」ということはではない、という事が分かりました。

確かに、今まで「この仕事面白そう」という観点から仕事を選んでこなかったんです。

条件とかネームバリューとかで決めちゃってたんですね。

「食えればいい」とか最初に言っていたことと矛盾していますが、それはあくまでも自分の希望であって、実際には家族の目を気にして選択してきてしまっていた、というのが本音です。

また後から書きますが、この下手に「どんな仕事でもそこそこ出来てしまう」というのがまた自分にとっては呪いだったんです。

人を苛立たせることしか書いてないな今日。

次へ行こう。

 

次に「②仕事以外の雑務(会社の行事やら飲み会)に時間を取られることが苦痛すぎる」です。

これ結構共感してくれる人は多いかもしれません。

 

まず「飲み会」という名の究極のプライベート時間破壊システム。

「アルティメット・プライベートタイム・ブレイカー」ですね。

ほんっっっとうに大嫌いでした。人とかの問題じゃない。

自分にとってはただただ無駄な時間としか考えられませんでした。

一生懸命理由を考えて逃れたかったのですが、やはり多少でも仕事に影響があると思うと参加せざると得なかったり、、。

まあ、それで上司に気に入られたり、新しい取引が生まれたりとかもあったので、仕事面ではいいこともあったんですが、、。

特に自分は酒もタバコも女のコもやらないので、苦痛でしかありませんでした。

 

それから「無意味な」残業。

皆なんで仕事終わってるのに帰らねーの?なんかの呪いなの?そんなに家が嫌いなの?

君たち帰らねーと僕帰れねーんだけど?

いや、意味のある残業ならいいのよ。

だけどね、どう考えても終わってるし不必要な残業なのよ。

管理者だから分かるのよ、君たちの仕事の進捗。

ただこれもハッキリ不要だと決めつけるわけにもいかず、社内の雰囲気もあるし、、。

これもプライベートの時間を削られるので嫌でしたね、、。

「アルティメット・プライベートタイム・シェイバー」でしたね。

 

それに加えて会社によっては定期的に発生する行事とかもろもろ、、。

これもしょうがないとは思いつつ、仕事で金も出ないのに色々準備したりとか、休みの日に会社に出たりとか、、。

「アルティメット・プライベートタイム・スポイラー」でした。

 

こういったことに時間を取られるのは当然と言えば当然なのですが、通常の仕事ですら余分な時間だと思っている自分にとってはかなりの苦痛とストレスでした。

 

そして「③他人に会社や自分の仕事の足を引っ張られることが我慢できない」。

これは自分の性格が問題だと思うんですが、要するに頭を使って仕事をしていない人が多すぎるんですよ。特に経営陣。

お前のその行動が、会社の、周りの足を引っ張ているということが何故分からない?

だから総会でも社員にもめちゃくちゃに言われるんだよ。

一生懸命考えに考え抜いた答えがそれならまだしも、行き当たりばったりで根拠がペラペラなやっつけのような決断や事業に自分の時間や人生は懸けられないです。

そういう無能な上司から、偉そうに指示されたり持論を展開されたりすることに対しても我慢がならないというか、そういう環境に身を置いている自分がなんか情けなくなってくるんですよね。

「自分に嘘ついてるなー」って感じで。

 

で、この①、②、③を考えた後に精神病院に行ったんです。

鬱病とかではなくて、ひょっとして自分は発達障害か何かなのだろうか、とも疑ったからです。

ずっと自分の考え方や価値観がおかしいのかなと思っていたので、一度検査受けてみたいと思ってたんです。

受けたことある方もいるかも知れませんが、計算とかパズルとか色んなテストを結構長い時間受けて、後日結果を発表という流れでした。

 

そしてその結果はというと、「発達障害ではないが、IQが130を超えており、周りとの価値観や常識とズレが生じている可能性が高い」というものでした。

これには結構自分も驚いて、色々調べてしまいました。

そうするとIQ130超えている人の特徴に当てはまる当てはまる。

好きなことに没頭するとか、トレンドや流行りに一切興味が持てないこと。言動が周りから浮いてしまい、それが人間関係をこじらせてストレスになってしまうとか。

なんとなく今まで自分が感じてきた違和感や、仕事が続かない原因が分かってきました。

 

原因が分かってから吹っ切れるまでは早かったです。

原因が分かって安心したのもあるし、もう生まれ持ったものならしょうがないや、という開き直りのような心境で「先のことなんて分からないから、出来るだけ自分のやりたいことだけやろう」と決意しました。

(ちなみにこの時の心境がここの最後の感想に繋がっています)

そして、その当時勤めていた会社を家族から猛反発を受けながらも辞めて、今のライター的な職に就いたわけです。

 

今の仕事に就いた理由は、上記で挙げた辞めてしまう原因がすべて無いから(今のところはね)。

初めて比較的興味のある仕事を選んだし、在宅勤務が多いので飲み会も少ない。

基本個人で黙々とやるような仕事なので周りの業務もほぼ関係ない。

自分がただ頑張って成果を上げればいいだけ。

まあまた何か不満が出てくるかもしれませんが、しょうがないよね。

その時はその時です。

 

この記事を見て、IQ高くてスゲーなんて思う人がいるかも知れませんが、はっきり言って何も良いことなどないですよ。

少なくとも自分は良いことの方が少なかった。

そんなものより普通の人として、普通の仕事や普通の人生、普通の趣味や興味を持って普通に友達と普通に話せたらって何度思ったことか。

IQ130以上の人は高確率でそう思ってると思います。

 

でも、それを知れたことによって、人生かなり変わったかなと思います。

いい意味で、自分と他人は違うんだ。

だから無理して周りに合わせなくていいんだって思えるようになりましたし、家族の目もまったく気にしないと言えばウソになりますが、それを吹っ切れるようにはなりました。

家族に心配かけてると思いますが、そのうち理解してくれると思っています。

 

やっぱり原因が分かると安心しますよ。

ああ、そういうことだったんだって。

自分は原因が分かってからそのままの自分を受け入れられるようになったし、少しは自分のことを好きになれました。

 

でもやっぱり根の自分は怠け者でその日暮らし気質なんだなと思います。

ホームレス生活も楽しそうだと考えてしまうくらいなので。

 

とりあえず先が分かる人生を送るくらいなら、

先が分からない人生を選びます。

 

お粗末様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モルモン教についてモルモン教徒が書いてみる

いきなりですが、自分はモルモン教徒(LDS※)です。

(※末日聖徒イエスキリスト教会(Latter Days Saint)のこと。LSDじゃないよ。末日聖徒イエスキリスト教会員は「モルモン教」という呼称を推奨していない。)

 

ただし、現在は日曜日に教会に行くこともなければ、聖書を愛読しているわけでもなく、ただ親がモルモン教徒だったために所謂「二世」として育った、というだけです。

つまり、別に破門されたわけでも、自分から退会したわけでもなく、ただただ教会に行かなくなっただけなので、現在も(恐らく)モルモン教会員であるんだろう、というただそれだけです。

モルモン教の神様も信じておりませんし、教義とか聖書の内容についても基本的なこと以外はまったく詳しくないです。

 

僕自身は不可知論者に近い無宗教だと思います。神様的な存在はいると思っています。

 

先日たまたまネットで「モルモン教ってカルトなの?」とか「モルモン教やばい」みたいな検索結果が結構出てきて、色々と読み漁ってみたんですね。

自分のまったく知らない事実とか、噂とか出てきて面白かったんですが、結構そういうの好きな人もいるのかなーと思ってネタにしてみようと思った次第です。

自分の経験則からのモルモン教、及びその教徒への感想とかつらつらと書いてみたいと思います。

 

(自分の経験に限った話で)結論から言うと、モルモン教(LDS)はまあまあまともな宗教団体なのではないかなーと思っています。教義とかも、別に物凄くおかしいものは無いのかなと。

むしろ人としてというか、宗教的には当然の教えばかりだと思う。

 

例えば、結構皆が突っ込んでた教義の中で「コーヒーやお茶とかカフェインは摂っちゃダメ、アルコールやタバコダメ」とか「結婚前のエッチダメ、夫婦以外とエッチしちゃダメ」とか「エッチ系の画像動画ダメ、自慰行為ダメ」とかがあるんだけど、これって理屈的にはいいことばかりでしょ(実際に守るのは難しいけど)。

(一部を除く)宗教において、食の制限や性の神聖視というのは必ずある要素なので、そこまで不思議ではないのかなと思います。

 

モルモン教と言えばよく話題にされる「一夫多妻制」。

この歴史やかつての存在意義については、自分もどちらかというと否定的です(一応、子孫を残すためだとか、設立当時は男女格差が激しく生活ができない女性が多く、そういう女性を救うためのしかたない制度だった、、みたいな理由があったらしいですが、、うーん)。

 

ちなみに誤解の無いように書いておきますが、自分がここで書いているモルモン教とは「末日聖徒イエスキリスト教会(LDS)」のことです(最初の説明を見てね)。

アメリカにある(日本にもいるのか?)原理主義(FLDS)とは違います。

LDSは、本拠地であるユタ州で一夫多妻制が禁止となった際に、教義的にも一夫多妻制を禁止しています。

それを政治的理由であり神の意志ではないから不服であるとして、LDSから分離し、従来通り一夫多妻制を貫いている宗教団体がFLDSです。

LDSはFLDSとはもはや団体的に何の関りもないと明確に宣言しています。

 

まあ確実に政治的理由であるにも関わらず「神から啓示があった」とか言って一夫多妻制を禁止したLDSにもはや宗教的説得力は皆無なんだけど、宗教とは人間が創ったものであると考えている自分にとっては、世の流れに柔軟なLDSの方が人間としてはまともなのかなとも思う、、。

とはいえ、FLDSとしては「お前ら神の教えを政治だとか金の問題で覆してんじゃねえ!」と言いたくなりますわな。それも分からんでもない。

が、僕は一夫多妻制を教義として制定することに対しては、まったく反対(一夫多妻自体はいいですよ。当事者たちが納得して良ければ何の問題もないと思う)なので、どちらにしてもそこに関しては今のところ疑問しかありません。

 

後は同性愛に関しても、今も同性婚は認めていないはず。

ただし、近年は同性愛者でも受け入れ自体は歓迎していると思う。

その辺は一夫多妻制と同じで、世論の変化のタイミングとほぼ同時に神から啓示が降りることでしょう。

宗教的説得力は皆無ですが、めちゃめちゃ考えが柔軟な神様、ということで良しとしておきましょう。

 

その他、お布施として給料の10%とか、変なスーツ着た2人組外国人宣教師による普及活動とか色々あるんだけど、その辺りはどんな宗教も色んな形で活動費を徴収しているし、普及活動しているわけで、モルモンに限った話ではないので納得はできてしまいますね、自分は。

 

次にその教徒や会員さんたちなのですが、僕は今現在も子供のころ仲良くなったたくさんのモルモン教徒の友達と付き合いがあります。

アメリカへ留学した時も、昔仲良かった宣教師の家にホームステイさせてもらってました。

それは単純に学校や会社で友達ができることと同じで、たまたまモルモン教というコミュニティの中で気が合ったからという理由であり、宗教自体はほぼほぼ関係ないです。

そして今でも付き合いがある友達は、宗教の話や勧誘的なことは今も昔も一切してこないです(だから付き合い続けていられるんだろうけど)。

当然教徒の中にはいやーな人や高慢な人はいますよ。

お前は本当に神様を信じているのか?って思う人も全然います。

これはどのコミュニティだろうがまったく同じ。

一般的にはまともでいい人率は高いです。

宗教に入る人って基本は善人になりたいとか、悲しみを乗り越えたいとか、そういう理由から入会してるので、神の教えを守ろうとするし、前述したようにその教えは基本的にまともなことばかりなので、当然いい人が多いんですよ。

そういった理由以外で入会している人や、幹部とか宗教内政治的なことに絡んでる人はそうじゃないかも知れませんが、一般信者は総じていい人が多い印象です。

 

自分は子供の頃からモルモン教であることで差別とかいじめられたりとか、辛い経験は一切しなかったので、逆に自分の宗教にまったく興味がなかったのです。

日曜日に教会行くこととか、神様のことを勉強することが単純にめんどくさ過ぎたし、その面倒くささを乗り越えるほどの信仰もありませんでした。

なので親の強制力が薄れる高校に上がる頃からは、もうほぼ教会というものには通っていません。

自分が教会に行かなくなってからも、札幌に新しい神殿ができたり、ご存じアメリカ大統領選に出馬したミット・ロムニーさんの活躍等、順調に勢力を拡大している印象。

 

モルモン教の神を信じていない自分が未だにモルモン教の友達たちと仲良くするのは、若干後ろめたさみたいなものもあったりしますが、前述している通り自分が付き合っている人達は宗教関係なく、とてもいい人達ばかり。

そんな人達が信じる神様や宗教を信じたい、という気持ちはあるんですが、モルモン教含め今現在ある宗教のほとんどはどう考えても人が人の為に創ったものである、という事が色んな観点から丸分かりなので不可知論者にならざるを得ないです、、。

 

でも、何故こういった教義があるのか?とかその歴史や意味を調べると、結構合理的な理由があったりするので(ユダヤ教のタルムードとか)そういうのはとても面白いと思います。

皆が素通りしていってしまうようなありふれた戒律には、実はとても真理的で根本的に大事なことが書かれていたりするんですよね。

モルモン教のカフェインやタバコ、酒がダメとか、エッチ系ダメとか、これも元を辿ると結局人生を破滅させるのって、こういうものなんですよね。

人が言っても守るはずがないので、「神」という崇高な存在を利用したわけですね。

教義自体はとても参考になるし、人の為になるものが多いなと思います。

 

長文だらだらと書きましたが、自分の経験則範囲ではLDS(モルモン教)およびその教徒は全然まともなのかなーと思います。

が、自分はモルモン教に対して特別な思いはまったく無いですし、贔屓も批判もするつもりはありません。

ただただ自分の経験則からの感想を書いただけです。

 

モルモン教の人たちが、モルモン教徒や宣教師にレイプ被害にあったとか、そういうことを書いてるサイトも見ましたが、内容が嘘だとは言いませんが、そういう人たちはどの宗教や団体にだって少なからず必ず存在していると思います(ローマカトリックと幼女虐待とか調べてみ?)。

お坊さんなんて俗にまみれまくりですし。

自分や自分の近い人が、どっかの宗教や団体の極一部の人から何か嫌なことをされたりしたら、その人個人だけではなく、その人が所属している組織全部ひっくるめて「悪」と見做してしまいがちだけど、実際はそんな事なくて、大多数の人は普通にいい人だったりすると思う。

中国・韓国人や外国人を物凄い目の敵にする人もいるけど(逆に日本人もされたりするけど)、僕が留学していた時誰よりも助けてくれたのは韓国人の友達たちです。本当にいい人達でした。彼らとは今でも連絡を取り続けています。

「木を見て森を見ず」とはよく言うが、「森を見て木を見ず」な人もとても多いと思う。

 

宗教や国籍、そんなレッテルは取っ払ってその人自身を見る目を養わないと、本質を見失ってしまうと思っています。

 

今日はこんな感じで終わりたいと思います。

お粗末様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっと「イントゥ・ザ・ワイルド」しよう

初投稿です。

 

この題材「イントゥ・ザ・ワイルド(荒野へ)」。

有名な映画・小説なのでご存じの方も多いと思います。

というより存じ上げてるからこのブログに辿り着いてると思います。

 

1992年にクリス・マッキャンドレス青年が放浪の末にアラスカで死体で発見された事件を描いた1996年のノンフィクション作品「荒野へ」及びそれを原作とした映画作品「イントゥ・ザ・ワイルド」。

詳細については、ここに来てる方はほとんど存じ上げていると思いますので、割愛します。

 

今日は自分がこの作品についてのブログや記事、レビューや感想を数々拝見して思ったことを書きたいと思います。

それは皆、彼が死んでしまったという結果に縛られ過ぎていると感じた、ということです。

 

彼を崇拝し賞賛する人も、批判する人も、彼の死というものを過大に捉えている。

当然、死というものは大きな事象な訳ですが(特に彼のようなショッキングな死に方だと特に)、そこに囚われて彼の精神や生き方を過度に美化したり、逆に無下に扱っている人が多いと感じました。

 

彼はどこにでもいるただの一人の若者です。

聖人でもなければ悪魔でもない。

彼の死に加えて、両親とのいざこざといった生い立ちや、出会った誰もが彼の事を好きになるという非俗物的な描写が更に彼を何者かに押し上げているように感じますが、ストーリーとしてはとりわけ珍しくもない話だと個人的には思います。

 

では何故そんな普遍的な話が、賛否両論を巻き起こすような大きな物語になってしまったかというと、それは多くの方が彼の死という一つの要素に縛られた見方をしているからだと思うのです。

 

クリスの「死」というのは全くの偶然なんですよ。

彼は決して死に場所を探して旅をしていたわけではないんです。

そりゃアラスカのパークレンジャーとかから言わせれば地図も十分な物資もなくアラスカの荒野に入るなんて自殺行為と同じで死ぬのは当然だ、と思われても仕方ないと思うのですが、当の本人はそんなこと考えてもいなかったんです(そこが甘いところではあるんだけど)。

 

なぜなら彼はアラスカ荒野での自給自足生活が厳しくなり、文明社会に一旦帰ろうと試みていたのですから。

それが肉体的限界のせいだったのか、何かしら精神的に折り合いをつけることができたからだったのかは分かりませんが(状況的に見れば前者)、自分が探し求めた土地で心中してやろうなんてことは決して考えていなかった。

 

「このままだと死ぬわ。とりあえず町に戻ってもう一度体制を立て直して再チャレンジしよう」と新たなる挑戦を考えていたかも知れない。

「ちょっと甘く考えすぎていたな」と反省し、現実社会に戻ろうと考えていたかも知れない。

「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」と悟ったように、これまでの旅で出会った誰かと再会する決意をしていたのかも知れない。

「少しは両親の気持ちを理解し、もう少し自分から歩み寄ってみよう」。

そんな風に考えていたかも知れないのです。

いずれにしても彼が一度アラスカを離れようとしていたことは事実。

 

で、ここで冷静に考えてほしいんですが

これってつまりちょっとスケールの大きな家出ですよね。

もしくはよくある自分探しの旅の範疇でしょ。

世間や人に絶望し死ぬつもりで家を出て、その末にアラスカの地で自死した、というのならまだしも、何の準備も知識もなく家出して、なかなかいい場所見つけたけど今の自分の力じゃどうにも生きられないことを痛感して、また戻ってくるっていう。

「死」という要素を切り離して冷静に見てみれば、ただの厨二病をこじらせた青年が自分探しの旅に出て、挫折して帰ってきただけの何の変哲もないありふれた話のはず。

 

「荒野へ」の著者であるジョン・クラカワーが同書で「自分は生き残り、マッカンドレスは死んだが、それはほとんど偶然でしかない」と書いていますが、まったくその通りなのですよ。

クラカワーが亡くなっていて、逆に彼の物語を生き残ったクリスが書いていた可能性だってあったわけですよ。

「死」というのは誤解を恐れず言えばただのオプションなんです。

彼の生い立ちや行動をその「死」というものに結び付け過ぎて、彼という人物を良くも悪くも歪曲し、大きなものにしてしまっている。

 

だから、死して尚思想を貫いたと勘違いして彼を崇拝し美化し過ぎてしまう人もいれば、無知のボンボンが自然を甘く見て無茶するから、とか、もう少し違う道がなかったのか、とか糞の役にも立たない無価値な説教を言いたがる人が出てくる。

 

勘違いしてはいけない。

彼は孤高に死ぬつもりなんて無く、最初から生きるために一度世を、人を捨てたつもりの普遍的なただの青年なんです。

ただ漠然とした行き場のない感情を、世や親に対する鬱憤を、その溜まったエネルギーを発散したかっただけなのです。

自分自身の力で、何者も頼らず自然に寄り添い生きていきたいと思い、そしてそれが出来ると思い上がっていたどこにでもいる青年なんです。

当然彼の行動には矛盾や軽率さ、甘さが滲みでているし、分別を弁えた大人から見れば無茶苦茶に見えるし、批判したがる人がいるのも分かります。

 

 

でもね、それが「若さ」というものでしょうよ。

自分の力を過信し、理想に酔って、無謀な行動に出させるもの。

偉そうに批判している人だって昔はそうだったでしょう?

誰が初めから正しく思慮深い選択なんてできるものか。

そうやって無茶して得た経験を元に、人は大人へ成長していくのではないのですか?

 

彼だってかつてのあなたや僕と同じただの甘ちゃんヤングボーイの1人だったんですよ。

 

彼がもし生きていたら、きっとこの体験を「何も持たずにアラスカの荒野へ行って、おんぼろバスに住みながら変な草を食べて死にかけたんだよねww本当にただの世間知らずのおぼちゃんだったんだ」なーんて何かのインタビューでユーモアを交えながら答えるくらい、今頃は誰もが認める人物になっていたかもしれないですよ?

そう、クラカワーのような人物に。

 

当然ただのボンクラになっていた可能性だってあります。

というか結果的には彼は亡くなってしまったわけですし。

 

だから、理想を追い求めた甘い考えのボンボンがどうなったか?

結局荒野で野垂れ死んだじゃないか。

だから地に足を付けて現実を見て生きろ。

という意見もよーーーーーーく分かりますよ。

でも僕はそれは彼の死という「結果」だけに囚われ過ぎている意見だと思う。

その過程をもっと見て大事にしなくちゃ。

それが人生の中身なんだから。

 

真面目に地に足つけて働いてれば死なないのか?

そうではないですよね。

真面目に働いた挙句、うつ病になって自殺する人もいる。

いきなり癌になって死んでしまう人もいる。

その人達に「会社なんかで真面目に働いているからそうなったんだ。もっと自然にやりたいように生きていればよかったんだ」なんて言えますか?

言えませんよね。

それは彼らが結果的に死んでしまったから、後出しじゃんけんのように偉そうに意見できるだけです。

結果だけに囚われているからです。

結果なんてただのオプションなんです。

 

人生どうなるかなんて誰にも分らないし、誰にも決められない。

だからあなたの信じる道、行きたい道を進むこと。

聞いてもないアドバイスなんて聞かなくていいんです。

後悔したって全然いい。

後悔したって、クリスみたいに「やっぱ人と繋がることは大事だ」そう思えたなら、何かをやった価値が十分あると思います。

そこから何かを学んで次に繋げられれば全然結果オーライ。

  

あなたの人生、あなたが決めたようで、実は誰かに決めさせられてないですか?

家族や世間や他の何かに。

よーく考えてみてください。

あなたの人生に文句言える人なんて一人もいないはず。

だって誰もあなたの代わりにはなれないんだから。

あなたの人生の責任は誰も負えないんだから。

 

だから、遠慮なく「イントゥ・ザ・ワイルド」を見て影響受けまくって

 

あなたももっと「イントゥ・ザ・ワイルド」しようぜ!!!

 

 

最近自分の本当に生きたい人生を決断した男より。

 

 

へったくそな文章で本当にすいません。

めっちゃ文章書くの難しいことが分かった。

ブロガーの皆さんすごいです。