もっと「イントゥ・ザ・ワイルド」しよう
初投稿です。
この題材「イントゥ・ザ・ワイルド(荒野へ)」。
有名な映画・小説なのでご存じの方も多いと思います。
というより存じ上げてるからこのブログに辿り着いてると思います。
1992年にクリス・マッキャンドレス青年が放浪の末にアラスカで死体で発見された事件を描いた1996年のノンフィクション作品「荒野へ」及びそれを原作とした映画作品「イントゥ・ザ・ワイルド」。
詳細については、ここに来てる方はほとんど存じ上げていると思いますので、割愛します。
今日は自分がこの作品についてのブログや記事、レビューや感想を数々拝見して思ったことを書きたいと思います。
それは皆、彼が死んでしまったという結果に縛られ過ぎていると感じた、ということです。
彼を崇拝し賞賛する人も、批判する人も、彼の死というものを過大に捉えている。
当然、死というものは大きな事象な訳ですが(特に彼のようなショッキングな死に方だと特に)、そこに囚われて彼の精神や生き方を過度に美化したり、逆に無下に扱っている人が多いと感じました。
彼はどこにでもいるただの一人の若者です。
聖人でもなければ悪魔でもない。
彼の死に加えて、両親とのいざこざといった生い立ちや、出会った誰もが彼の事を好きになるという非俗物的な描写が更に彼を何者かに押し上げているように感じますが、ストーリーとしてはとりわけ珍しくもない話だと個人的には思います。
では何故そんな普遍的な話が、賛否両論を巻き起こすような大きな物語になってしまったかというと、それは多くの方が彼の死という一つの要素に縛られた見方をしているからだと思うのです。
クリスの「死」というのは全くの偶然なんですよ。
彼は決して死に場所を探して旅をしていたわけではないんです。
そりゃアラスカのパークレンジャーとかから言わせれば地図も十分な物資もなくアラスカの荒野に入るなんて自殺行為と同じで死ぬのは当然だ、と思われても仕方ないと思うのですが、当の本人はそんなこと考えてもいなかったんです(そこが甘いところではあるんだけど)。
なぜなら彼はアラスカ荒野での自給自足生活が厳しくなり、文明社会に一旦帰ろうと試みていたのですから。
それが肉体的限界のせいだったのか、何かしら精神的に折り合いをつけることができたからだったのかは分かりませんが(状況的に見れば前者)、自分が探し求めた土地で心中してやろうなんてことは決して考えていなかった。
「このままだと死ぬわ。とりあえず町に戻ってもう一度体制を立て直して再チャレンジしよう」と新たなる挑戦を考えていたかも知れない。
「ちょっと甘く考えすぎていたな」と反省し、現実社会に戻ろうと考えていたかも知れない。
「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」と悟ったように、これまでの旅で出会った誰かと再会する決意をしていたのかも知れない。
「少しは両親の気持ちを理解し、もう少し自分から歩み寄ってみよう」。
そんな風に考えていたかも知れないのです。
いずれにしても彼が一度アラスカを離れようとしていたことは事実。
で、ここで冷静に考えてほしいんですが
これってつまりちょっとスケールの大きな家出ですよね。
もしくはよくある自分探しの旅の範疇でしょ。
世間や人に絶望し死ぬつもりで家を出て、その末にアラスカの地で自死した、というのならまだしも、何の準備も知識もなく家出して、なかなかいい場所見つけたけど今の自分の力じゃどうにも生きられないことを痛感して、また戻ってくるっていう。
「死」という要素を切り離して冷静に見てみれば、ただの厨二病をこじらせた青年が自分探しの旅に出て、挫折して帰ってきただけの何の変哲もないありふれた話のはず。
「荒野へ」の著者であるジョン・クラカワーが同書で「自分は生き残り、マッカンドレスは死んだが、それはほとんど偶然でしかない」と書いていますが、まったくその通りなのですよ。
クラカワーが亡くなっていて、逆に彼の物語を生き残ったクリスが書いていた可能性だってあったわけですよ。
「死」というのは誤解を恐れず言えばただのオプションなんです。
彼の生い立ちや行動をその「死」というものに結び付け過ぎて、彼という人物を良くも悪くも歪曲し、大きなものにしてしまっている。
だから、死して尚思想を貫いたと勘違いして彼を崇拝し美化し過ぎてしまう人もいれば、無知のボンボンが自然を甘く見て無茶するから、とか、もう少し違う道がなかったのか、とか糞の役にも立たない無価値な説教を言いたがる人が出てくる。
勘違いしてはいけない。
彼は孤高に死ぬつもりなんて無く、最初から生きるために一度世を、人を捨てたつもりの普遍的なただの青年なんです。
ただ漠然とした行き場のない感情を、世や親に対する鬱憤を、その溜まったエネルギーを発散したかっただけなのです。
自分自身の力で、何者も頼らず自然に寄り添い生きていきたいと思い、そしてそれが出来ると思い上がっていたどこにでもいる青年なんです。
当然彼の行動には矛盾や軽率さ、甘さが滲みでているし、分別を弁えた大人から見れば無茶苦茶に見えるし、批判したがる人がいるのも分かります。
でもね、それが「若さ」というものでしょうよ。
自分の力を過信し、理想に酔って、無謀な行動に出させるもの。
偉そうに批判している人だって昔はそうだったでしょう?
誰が初めから正しく思慮深い選択なんてできるものか。
そうやって無茶して得た経験を元に、人は大人へ成長していくのではないのですか?
彼だってかつてのあなたや僕と同じただの甘ちゃんヤングボーイの1人だったんですよ。
彼がもし生きていたら、きっとこの体験を「何も持たずにアラスカの荒野へ行って、おんぼろバスに住みながら変な草を食べて死にかけたんだよねww本当にただの世間知らずのおぼちゃんだったんだ」なーんて何かのインタビューでユーモアを交えながら答えるくらい、今頃は誰もが認める人物になっていたかもしれないですよ?
そう、クラカワーのような人物に。
当然ただのボンクラになっていた可能性だってあります。
というか結果的には彼は亡くなってしまったわけですし。
だから、理想を追い求めた甘い考えのボンボンがどうなったか?
結局荒野で野垂れ死んだじゃないか。
だから地に足を付けて現実を見て生きろ。
という意見もよーーーーーーく分かりますよ。
でも僕はそれは彼の死という「結果」だけに囚われ過ぎている意見だと思う。
その過程をもっと見て大事にしなくちゃ。
それが人生の中身なんだから。
真面目に地に足つけて働いてれば死なないのか?
そうではないですよね。
真面目に働いた挙句、うつ病になって自殺する人もいる。
いきなり癌になって死んでしまう人もいる。
その人達に「会社なんかで真面目に働いているからそうなったんだ。もっと自然にやりたいように生きていればよかったんだ」なんて言えますか?
言えませんよね。
それは彼らが結果的に死んでしまったから、後出しじゃんけんのように偉そうに意見できるだけです。
結果だけに囚われているからです。
結果なんてただのオプションなんです。
人生どうなるかなんて誰にも分らないし、誰にも決められない。
だからあなたの信じる道、行きたい道を進むこと。
聞いてもないアドバイスなんて聞かなくていいんです。
後悔したって全然いい。
後悔したって、クリスみたいに「やっぱ人と繋がることは大事だ」そう思えたなら、何かをやった価値が十分あると思います。
そこから何かを学んで次に繋げられれば全然結果オーライ。
あなたの人生、あなたが決めたようで、実は誰かに決めさせられてないですか?
家族や世間や他の何かに。
よーく考えてみてください。
あなたの人生に文句言える人なんて一人もいないはず。
だって誰もあなたの代わりにはなれないんだから。
あなたの人生の責任は誰も負えないんだから。
だから、遠慮なく「イントゥ・ザ・ワイルド」を見て影響受けまくって
あなたももっと「イントゥ・ザ・ワイルド」しようぜ!!!
最近自分の本当に生きたい人生を決断した男より。
へったくそな文章で本当にすいません。
めっちゃ文章書くの難しいことが分かった。
ブロガーの皆さんすごいです。